コンプライアンスが叫ばれる時代、特にハラスメント系に対する世間の風当たりはかなり厳しくなっています。セクハラは当然アウトですが、モラハラもまた厳しく対応しなければならない事案になろうとしている状況です。しかし、厳しく育てられてきた人からすれば褒めて伸ばす方がおかしいのではないかと疑問を呈したくなる気持ちもわかります。このような状況を、人材コンサルティングHappyDayを経営する川尻征司さんは、信仰心というキーワードで考えようとしています。
師匠と弟子の関係に持ち込めれば
川尻征司さんにとって、モラハラはあまりいいものではないと考えています。しかし、厳しく接することや物事にシビアに対峙させていく姿勢はビジネスにおいて必要と考え、無理に褒めて伸ばす必要もないというのが持論です。かといって、無理に叱り付ける意味もないため、自然に怒ったり褒めたり、叱り付けたり同情したりということができるかどうかが大事だと考えます。
そこで川尻征司さんは上司と部下ではなく、師匠と弟子のような関係に持ち込めればハラスメントを気にせずに指導ができると仮説を立てます。多くの人は恩師と呼べる存在や尊敬できる人物がいます。恩師などは時に厳しい態度で接することもありながら、成功を収めれば素直にそのことを褒めます。恩師なくして今の自分はいないと思っている人も多く、この存在がとても大事ではないかと川尻征司さんは考えたわけです。ハラスメントで困る人たちは師匠と弟子の存在にすることができていないか、一方向に思っているだけという可能性が高いのです。
結局は信仰心の有無
本来信仰心は宗教で用いられることが多く、神様を無条件に信じることができれば信仰心が高いことを意味します。ところが、信仰心がないと神様への疑いが生まれ、毎日祈りをささげるなどのことをしなくなります。信仰心があれば一見すれば不条理、理不尽、無駄なことであっても疑いなくこなすことができます。人は殴られて育つものだという価値観に疑いがなければ、どれだけ殴られようともどれだけなじられようとも食らいつこうとします。
怒られるうちが華ということわざが日本にありますが、怒られているうちは気にかけてくれていて無視されたらおしまいなんだから、怒られても気にしなくてはいけないし、自分が単に未熟なだけという意味合いです。そこに全く疑いを持たない人に関しては多少のハラスメントは我慢してくれる可能性が高く、疑いを持ってしまう人は一切のハラスメントを受け入れない可能性が高いです。
一切のハラスメントを受け入れないという状況は、多少厳しい指摘を行い、人格につながる批判をしてしまった時、烈火のごとく騒ぎ立て労働環境を著しく悪化させる可能性を秘めます。この状況に苦しんでいる人が実に多く、ハラスメントを回避しようとするあまり、今までの自分を否定せざるを得ず、世知辛さや最近の風潮への批判を強めます。
川尻征司さんはこうした状況に多少の憂いを抱きますが、今まであまりにも考えてこなかっただけでこれがあるべき姿ではないかと考えます。つまり、関係性を構築し相互的に絆を結べる関係であれば厳しい指導は問題ないものの、そうではない状況では神経をすり減らしてでも臨機応変に対応しなければならないというわけです。
立派な指導者は臨機応変に対応できる
川尻征司さんは野球が好きで、プロ野球の監督に振る舞いなどを観察しています。すると、一見ただただ厳しいだけに見える指揮官は、人によって対応を変えていることがわかります。どれだけ言っても大丈夫な人には怒られ役になってもらい、自分の事を自分でやれている人は基本的に静観するようにし、使い分けているのです。えこひいきに見えなくもないですが、自分で自分を律することができる人は言わなくてもわかってくれるという思いがあるからです。
ダメな指導者はこれができず、誰に対しても同じ対応になりがちです。自分を律することができる人にも厳しく、言わなきゃわからない人に何も言わず全員に大人の対応をしてしまい、失敗に終わります。ハラスメントに苦しんでいる人は、結局鉄拳制裁や厳しい態度を全員にしてしまい、信仰心をうまく引き出せず、関係性が希薄な中で苦しんでいるだけです。言ってしまえば管理職として向いておらず、もっと悪い言葉で表現すれば、管理職でありながら平社員マインドと言えるでしょう。
まとめ
川尻征司さん自身も仕事に対して厳しく向き合っているため、時に厳しい注文を相手にすることがあります。一方で、厳しい注文をする以上厳しい注文をされても文句は言えないとも考えており、相手に厳しさを求めるなら自分も厳しくしなければならないと思っています。でも、それが徹底できないのも人間。常に至らぬ点を見つけ、部下へのリスペクトを持っていないとダメ、そのように川尻征司さんは考えます。
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