塩谷瞬がネパール親善大使になった理由

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俳優として活躍し、忍風戦隊ハリケンジャーではハリケンレッド役としてスーパー戦隊のセンターを務めた塩谷瞬さん。映画「パッチギ」での抜擢など俳優としてのキャリアを順調に歩んできた塩谷瞬さんでしたが、現在はネパール親善大使を務めています。

なぜ俳優として活動してきた塩谷瞬さんがネパール親善大使になったのか、そこには塩屋俊さんの身に起きた出来事、そして、その出来事をきっかけに出会った人との絆がありました。

元々海外支援に力を入れていた

塩谷瞬_ヘリ

塩谷瞬さんがネパール親善大使になるのは2014年のことですが、それから遡ること3年、塩谷瞬さんは「なんとかしなきゃ!見過ごせない55億人」というプロジェクトに参加します。「なんとかしなきゃ!見過ごせない55億人」は2010年に始まったプロジェクトで、1人1人が自分の範囲の中でできることを実践し、国際協力に目を向けてもらうことを狙ったものです。

当時歌手の平原綾香さんや金メダリストの高橋尚子さんなど多数の著名人が参加した中で、塩谷瞬さんも参加。全国各地でイベントを展開していく中で、2011年1月に塩谷瞬さんは東ティモールに派遣されます。

その東ティモールでは、現地の人と交流するほか現地の様子を写真に収めるなど精力的に活動。この様子はJICAが発行する雑誌にも掲載されており、現在もインターネットで閲覧することができます。実に1週間にわたって東ティモールの現状を見た塩谷瞬さん。日本人が東ティモールで活動していることを強く認識、積極的に発信していかなければならないと気持ちを新たにしていました。

網膜剥離がきっかけに

塩谷瞬 メガネ

東ティモールを訪れた翌年、塩谷瞬さんは世界旅プロジェクトを発表し、現在までに200か国以上を回るほか、各地でボランティアを行い、ドキュメンタリー番組などの撮影を行っています。東ティモールでの経験から世界の事をもっと知りたいという気持ちが行動に現れた形です。

しかし、そんな塩谷瞬さんにアクシデントが起こります。201年の夏、仕事をしていると目に違和感を覚えて眼科へ。すると重度の網膜剥離であることが明らかになったのです。混恩時点で塩谷瞬さんの網膜はほとんどが剥がれており、発覚がもう少し遅れれば失明の危険性までありました。まさにギリギリのタイミングで眼科に駆け込み、手術を受けたことになります。

目の手術とあって何かと不安が募る中、先生と話を行って気を紛らわせる時に、世界旅の話に。すると、先生から「アイキャンプ」の存在を知らされます。アイキャンプは海外で医療が発達していない地域に出向き、特に足りないとされる眼科医が仮設の病院を作って診療を行うというものです。

ネパールでは現時点で失明している患者が15万人ほどおり、手術をすれば回復が見込める患者が10万人いるとされています。目の前が真っ暗、しかも周囲は文明が行き届いていない場所。1973年から始まったプロジェクトですが、日本ではあまり認知されていません。ネパールやインドなどに出向いて光りを取り戻す活動を行っていると聞いた塩谷瞬さんはまさに運命と感じ、ネパール行きを決断します。

ネパールに行くと、日本の技術がネパールにも伝わっていることに感動した一方、支援活動をいかにネパールに伝えていくか、ボランティアでやってきた医師たちがとても苦労している様子を知ることになります。塩谷瞬さんは俳優として、日本とネパールを結ぶ人間ドラマを描く構想を思いつくなど、様々な刺激を得ていました。

そしてネパール親善大使へ

塩谷瞬 山

その後、塩谷瞬さんは何回もネパールに足を運び、ネパールのことを少しでも知ろうと現地の人と交流を深めていきます。そして、2014年9月、その活動が評価され、ついにネパール親善大使となりました。セレモニーの舞台となったのは上野公園で、当時ネパールフェスティバルが開催されていました。外務省や駐日ネパール大使館が後援するイベントで、その中で塩谷瞬さんが親善大使に任命されています。

ネパール親善大使としての活動をしていた塩谷瞬さんでしたが、2015年ネパール大地震が発生。被害規模の大きさから当初は募金活動で支援を行いつつ、ようやく落ち着きを見せた段階で現地ネパールへ。落ち着いたといってもまだまだ被害の爪痕が残る中、塩谷瞬さんはボランティアとしてその様子を見てきました。

コロナ禍でなかなか世界へ行けない中、出来る限りのことをする、それが塩谷瞬さんのやり方であり、今もその活動は続いています。

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